今話題になっている本、『嫌われる勇気』を読みました。
4年前、いくつかの本との出会いをきっかけに、わたしは精神的に楽になりました。
人生の意味をなくしてさまよっていたわたしに、新しい生き方を教えてくれたのは本でした。
たくさんの本を読むうちに、「自己受容」や「他者貢献」といった考え方を知りました。
そのおかげで、過去のトラウマや未来の不安を拭い去り、一歩ずつ前に進んでいく勇気を得ることができたのでした。
この『嫌われる勇気』という本を読んで驚いたのは、わたしが当時様々な本を通じて解決していった恐れや不安を、すべてまとめてくれるような内容だったことでした。
変えられるのは自分だけだけど、自分から見える世界を変えることができるのは、自分だけなのです。
読み進めるうちに、わたしの自身の過去も照らし合わしながら、とても興味深く読み進めることが出来ました。
哲人と青年の対話形式でとても読みやすく、かつ、たくさんの気づきを得られる本で、とてもオススメです。
読書メモの中から、人生を生きるための勇気を得るためのヒントをご紹介します。
レビューというより、まとめ、ですね。
可能性に生きない
不幸だと思っている人は、自分で不幸になることを選んでいる。
変わることで生まれる新たな不安ではなく、現状の不満の方を選んでいる。
もしも〜だったらという可能性にすがりながら、それをやらないことによって「やればできる」という可能性を残している。
可能性に生きるのではなく、いまここを生きることでしか前に進むことはできない。
今の自分を受け入れる
他者との関係で自分が傷つくのが怖いので、殻に閉じこもって「自分の嫌いなところさえなければ、わたしは愛される」と対人関係を拒むようになっている。
劣等感は自己に対する価値判断、自分でどう意味をつけるか。劣っているという客観的事象ではなく、主観的解釈。
人は理想に達していない自分に対して、まるで劣っているかのような感覚をもってしまう。劣等感をバネにして前進するのは、努力や成長を促すきっかけになるが、勇気がない人はそれができない。
肩書きや経歴詐称、ブランド、自分の過去の手柄などにすがる人は自信がないから。
不幸によって相手をコントロールしようとすることもできる。「あなたにわたしの気持ち分からない」は真実。苦しんでいる当事者の気持ちは誰にもわからない。しかし、自らの不幸を武器として使う限りその人は永遠に不幸を必要とする
今の自分を受け入れて、失敗しても前に進めるという勇気を得ること。
競争をしないこと
みんな同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろもいる。
誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いて行けばいい。
健全な劣等感とは、他社の比較ではなく、「理想の自分」との比較から生まれる。
今の自分よりも前に進もうとすることこそ価値のあること。
敗れた相手は復讐をする。親から虐げれられた子供が非行に走る、不登校になる、自傷行為など、親が困ることをして復習することが目的。
正しいと思うなら他人がどんな意見であれ、そこで完結するべき。
幸せになる勇気を持つ
人生のタスクから逃げないこと。
行動面の目標
1.自立すること
2.社会と調和して暮らせること
心理面の目標
1.わたしには能力があるという意識
2.人々はわたしの仲間であるという意識
これらの目標は「仕事のタスク」、「交友のタスク」、「愛のタスク」という「人生のタスク」と向き合うことで達成される。
人生のタスクを回避するためにする行動を「人生の嘘」と呼んでいる。
これは善悪や道徳でもなく、勇気の問題。
仕事が忙しいは、人生の嘘。
他者の評価を気にしない
他者から承認を求めることを否定する
適切な行動をとったらほめてもらえる=不適切な行動をとったら罰せられる
現在の賞罰教育の先に生まれるのは、褒めてくれる人が居なければ適切な行動をしない、罰する人が居なければ不適切な行動もとるという考え。
他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。
自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけない。
他者の課題に踏み込まない
勉強するという課題があったとき「これは誰の課題なのか?」を考える。
その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?
子供が勉強するのかしないのか、友達と遊びに行くのか行かないのか。
それは親の課題ではなく、他者の課題には踏み込まない。
子供が何をしているのか知った上で、見守る。勉強は本人の課題であることを伝え、本人が勉強したいと思ったときはいつでもそれを援助する用意があることを伝えておく。頼まれもしないのに口出しをするようなことをしない。
自分を変えることができるのは自分しか居ない。
子供の課題は自分の課題だと思って抱えて、子供のことばかり考え、気づいたら人生からわたしが消えている。
いくら子供の課題を抱え込んでも独立した個人で親の思い通りになるものではない。
家族だからこそ意識的に課題の分離をする必要がある。他者を信じるということも、自分自身の課題。
対人関係の悩みを解決する方法
自分の信じる最善の道を信じること。
他者がどのような評価を下すのか、他者の課題であってどうにもできない。
他者の課題に踏み込まず、自分の課題に介入させないことが自由。
他人の人生を生きない
相手がどんな働きかけをしてこようとも、自分のやるべきことを決めるのは自分。
子供が靴紐を結べないので結んであげると、子供の課題を取り上げてしまっていることになる。
それを繰り返した結果子供は何も学ばなくなり、困難に直面することを教えられなかった子どもたちはあらゆる困難を避けようとする。
自分の道を自分で決めようとすれば「いかにいきるべきか」という壁に直面する。
ほんとうの自由
坂道を転がるような生き方は欲望や衝動の奴隷。ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような、傾向性に抗うことのできる人。
自由とは、他者から嫌われることを恐れないこと。
誰かに嫌われているということは、あなたが自由を行使して自由に行きている証。
他者の評価をきにかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫いて自由になることはできない。
わたしは世界の中心ではない
他者からよく思われたいから他者の評価を気にするのは、自己中心的な考え方。
わたしは人生の主人公ですが、世界の中心ではない。
この人はわたしに何を与えてくれるのか?ではなく、わたしはこの人に何を与えられるのか?を考える。
会社を退職したとたんに元気をなくしてしまう人。会社という共同体から切り離され、肩書や名刺を失い、ただの人になってしまう。普通を受け入れられず、一気に老けこんでしまう。ただ小さな共同体から切り離されただけ、別のもっと大きな共同体に属していると考える。
学校がだめなら学校の外に居場所を見つける。転校しても退学してもいい。
世界の大きさを知れば、その苦しみがコップの中の嵐ということがわかる。出口が見えなくなったとき、まずはより大きな共同体の声をきくこと。異を唱えることで壊れる関係ならそんな関係最初から結ぶ必要はない。
叱っても褒めても行けない
褒めるという行為は、能力のある人が能力にない人に下す評価という側面がある。
人が他者を褒めるときその目的は自分よりも能力の劣る相手を操作すること。
対人関係を縦で捉えて相手を自分より低く見ているからこそ介入してしまう。
人が課題を前に踏みとどまっているのはその人に能力がないからではなく、課題に立ち向かう勇気がくじかれているから。
他者を評価しない。手伝ってもらった時に、褒めるのでも叱るのでもなく、「ありがとう」と感謝する。
ありがとうは評価ではなく、貢献できたことを知ることができる。
わたしは他者に貢献できていると思えた時にこそ自らの価値を主観的に実感できると思える。
他者貢献とは、わたしを捨てて誰かに尽くすことではなく、わたしの価値を実感するためになされるもの
わたしは誰かの役に立っていることを実感、自分の存在価値を受け入れる
その貢献感が持てれば目の前の現実はまったくちっがった色彩を帯びてくる
他者を信頼する
他者を信じるにあたっていっさいの条件を付けず、わたしがどうするかを考えればいいというのが信頼。
信頼することを恐れては誰とも深い関係を築くことができない。
悲しい時は思い切り悲しむ。痛みや悲しみを避けようとするから誰とも深い関係を築けない
「いま、ここ」を生きる
人生は線ではなく点、連続した刹那。
われわれは「いまここ」にしか生きることができない。計画的な人生は、必要か不必要か以前に、不可能。
過去にどんなことがあったかは関係ない、未来がどうであるかなどもいま考える問題ではない。
毎日すこいしでもいいから勉強する、ダンスを踊る。「今日できたこと」のために1日はある。
いまをどう生きたかをみる。
将来に目標を設定してその準備期間だと、「本当はこれがしたいけれどやるべき時がきたらやろう」考えるのは人生を先延ばしにした生き方。
過去を見て、未来を見て、人生全体にぼんやりとした光を当ててなにか見えたつもりになっていること。あるのは昨日でも明日でもなく、いまここだけ。
世界はわたしによってしか変えられない
困難に見舞われた時にこそ、前を見てこれから何ができるのかを考える。
人生の意味は、あなたが自分自身に与えるもの。他者に貢献するのだという導きの星を見失わなければ迷うことはない。
わたしの力は計り知れないほどにおおきく、わたしが変われば世界が変わってしまう。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものでなく、わたしに寄ってしか変わりえない。